【秋田】安東愛季 [ご当地武将(1県1人)]
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秋田県は「斗星の北天に在るにさも似たり」と称賛された英雄、安東愛季です。
1.どんな人か?
出羽国檜山城(秋田県能代市)の城主です。
(「【北海道】武田信広」で登場した安東政季の玄孫でもあります)
長年分裂してた安東氏を一つにまとめあげ、隣国を切り取って安東氏を出羽一の戦国大名に成長させました。
晩年、秋田姓を名乗るようになり、江戸時代の三春藩主秋田氏へとつながっていきます。
2.出自
1539年生まれ。1587年死去。
豊臣秀吉が1537年生まれなので、ほぼ同世代といえる戦国後期の武将です。
檜山城主の子として生を享けます。
1553年(15歳)のとき、父の安東舜季が死去し、家督をつぎます。
2、対外進出
家督をついだ愛季は、積極的に対外進出をはかります。
陸奥国長牛城(秋田県鹿角市)をめぐって南部氏との攻防を繰り広げ、また、河川交易をめぐって豊島氏ら近隣の豪族とも争いました。
1572年(31歳)、ついに豊島氏ら敵対する豪族を倒し、秋田郡一帯を支配下におさめることに成功します。
3、安東氏の統一
当時、安東氏は、愛季の下国家(檜山安東氏)と湊家(湊安東氏)に分かれていました。
檜山安東氏は米代川河口付近、湊安東氏は雄物川河口付近をおさめていたとされます。
この両家、湊騒動と呼ばれる抗争が断続的に起こるなど対立していましたが、1579年(37歳)、愛季によって統合されます。
愛季が、父は檜山安東氏、母は湊系安東氏当主の娘という両安東氏のハイブリッドな血筋であったことも手伝い、統合は平和裏に行われたとされています。
ただ、湊家の血統が絶えたから愛季が両家を統合したという穏健説と、湊家当主が幼かったので後見役となった愛季が強引に統合したという強行説があるようです。
いずれにせよ、この統一によって安東氏は出羽北部の大きな勢力となります。
4.出羽国最大の戦国大名へ
愛季は、対外進出と同時に土崎港(秋田県秋田市)を整備し、交易を強化します。
その結果、北は蝦夷地から南は越前(福井県)朝倉氏につながる北に資本最大の港湾都市が生まれ、大きな収益をあげることに成功しました。
ますます勢力を増す愛季は、1582年(40歳)、出羽国比内郡(秋田県大館市、北秋田市、北秋田郡あたり)を支配していた浅利氏を倒して比内を掌握します。
これにより、北出羽の大体を統一し、安東氏は出羽国最大の戦国大名へと成長しました。
5.その後
愛季はその後も、積極的に対外進出をはかっていきます。
また、同時に外交面でも抜け目なく立ち回り、信長、秀吉といった中央の勢力と誼を通じ、少しさかのぼりますが1580年(38歳)には従五位下侍従に任じられています。
このころ、秋田城介を称します。
秋田城介は、出羽国の秋田城を管理した国司で、鎌倉以降は一帯を支配する役職だったようです。
安東氏の後の姓「秋田」は、この秋田城介に由来します。
1587年(45歳)、角館城(秋田県仙北市)の主、戸沢盛安と戦った際に陣中で病没してしまいます。
6.関連書籍
北天の巨星
金重明 (著)
講談社、2010
1.どんな人か?
出羽国檜山城(秋田県能代市)の城主です。
(「【北海道】武田信広」で登場した安東政季の玄孫でもあります)
長年分裂してた安東氏を一つにまとめあげ、隣国を切り取って安東氏を出羽一の戦国大名に成長させました。
晩年、秋田姓を名乗るようになり、江戸時代の三春藩主秋田氏へとつながっていきます。
2.出自
1539年生まれ。1587年死去。
豊臣秀吉が1537年生まれなので、ほぼ同世代といえる戦国後期の武将です。
檜山城主の子として生を享けます。
1553年(15歳)のとき、父の安東舜季が死去し、家督をつぎます。
2、対外進出
家督をついだ愛季は、積極的に対外進出をはかります。
陸奥国長牛城(秋田県鹿角市)をめぐって南部氏との攻防を繰り広げ、また、河川交易をめぐって豊島氏ら近隣の豪族とも争いました。
1572年(31歳)、ついに豊島氏ら敵対する豪族を倒し、秋田郡一帯を支配下におさめることに成功します。
3、安東氏の統一
当時、安東氏は、愛季の下国家(檜山安東氏)と湊家(湊安東氏)に分かれていました。
檜山安東氏は米代川河口付近、湊安東氏は雄物川河口付近をおさめていたとされます。
この両家、湊騒動と呼ばれる抗争が断続的に起こるなど対立していましたが、1579年(37歳)、愛季によって統合されます。
愛季が、父は檜山安東氏、母は湊系安東氏当主の娘という両安東氏のハイブリッドな血筋であったことも手伝い、統合は平和裏に行われたとされています。
ただ、湊家の血統が絶えたから愛季が両家を統合したという穏健説と、湊家当主が幼かったので後見役となった愛季が強引に統合したという強行説があるようです。
いずれにせよ、この統一によって安東氏は出羽北部の大きな勢力となります。
4.出羽国最大の戦国大名へ
愛季は、対外進出と同時に土崎港(秋田県秋田市)を整備し、交易を強化します。
その結果、北は蝦夷地から南は越前(福井県)朝倉氏につながる北に資本最大の港湾都市が生まれ、大きな収益をあげることに成功しました。
ますます勢力を増す愛季は、1582年(40歳)、出羽国比内郡(秋田県大館市、北秋田市、北秋田郡あたり)を支配していた浅利氏を倒して比内を掌握します。
これにより、北出羽の大体を統一し、安東氏は出羽国最大の戦国大名へと成長しました。
5.その後
愛季はその後も、積極的に対外進出をはかっていきます。
また、同時に外交面でも抜け目なく立ち回り、信長、秀吉といった中央の勢力と誼を通じ、少しさかのぼりますが1580年(38歳)には従五位下侍従に任じられています。
このころ、秋田城介を称します。
秋田城介は、出羽国の秋田城を管理した国司で、鎌倉以降は一帯を支配する役職だったようです。
安東氏の後の姓「秋田」は、この秋田城介に由来します。
1587年(45歳)、角館城(秋田県仙北市)の主、戸沢盛安と戦った際に陣中で病没してしまいます。
6.関連書籍
北天の巨星
金重明 (著)
講談社、2010